2013年上期 感銘を受けた5冊

2013年上期に読んで感銘を受けた本5冊。既読だったが改めて読んだ本も含む。

転校生とブラックジャック――独在性をめぐるセミナー (岩波現代文庫)

転校生とブラックジャック――独在性をめぐるセミナー (岩波現代文庫)

「世界には自分しか存在しない」といった単純な独我論ではなく、他の人たちにも自我が存在するであろうことを認めつつも、なぜが自分が<自分>であるかということの不思議さに焦点を当てた書籍。永井均の書籍は、ほぼ全てが<私>と<今>の問題がテーマ。ここまでしつこく1つのテーマに執着できる著者に脱帽。

「学生E: そうだよ。ぼくはEなんだよ。それがすべてだ。それをどう説明するんだ?どんな科学も、Eという人間にもまた自己意識がある、ということまでしか説明できない。それなのに、なんと、このぼくは、なぜか、そのEなんだよ。」

「世界は、実際、そういうふうにして、<今>における<ぼく>から成り立っているのではないだろうか。<ぼく>とは、いわば、そのつど死んでいく存在(Sein zum Tode)なのではあるまいか。」

6月末に出た、十二国記シリーズ12年ぶりの短編集。「丕緒の鳥」、「落照の獄」、「青条の蘭」、「風信」の4つの短編を収録。この中ではある男への死刑の是非を扱った「落照の獄」が秀逸。テーマとしては、幼い子供を含む23人もの人間を無惨に殺し、且つ罪の意識を全く持たない男への処罰として、死刑か否かを選ぶという、難しいながらもよくありそうなもの。ただ、それが十二国記の世界設定も相まって、いずれを選んでも悲惨な状況になってしまうという「二律背反」な状況を、リアルに描いている。読者である自分も、正解のない問いにストレスを感じたくらい。陰惨な内容でもあり、決して楽しんで読めるような話では無いながらも印象深い一編。

「すぐ近くだったんだ。なのに私はあの子を助けにいってやれなかった。きっと私たちを呼んだはずだ。なのにその声を、私は聞きつけることができなかった。どれほど苦しかったでしょう。そのとき息子は何を考え、何を感じていたんでしょう。なぜ息子だったのですか。なぜ死ななければならなかったのですか。私には何一つわからない。分からないから考えることをやめられない。私に分かっているのは、息子がもう帰ってこないということと、にもかかわらずあの男は生きている、ということだけです」

シビリアンの戦争――デモクラシーが攻撃的になるとき

シビリアンの戦争――デモクラシーが攻撃的になるとき

山形浩生のブログ経由で興味を持った本。軍人は自分の経験から、実際に戦争行動をとることに対して高くリスクを見積もる。しかしながら戦争の経験が無い(大統領や首相、政府高官などの)シビリアンは、戦争のリスクを低く見積もってしまう。戦争の悲惨な実態を体験することが無いが故、シビリアンこそが積極的に戦争に走りうるという、現代人の常識に挑戦するような仮説を、多くの実例を挙げながら論証する。渋いおっさんが書いたのかと思いきや、著者は1980年生まれで、本書は博士論文を元にしているとのこと。凄い…

「第二次世界大戦にいたる日本の経験やナチスドイツの攻撃性などの歴史を踏まえて,軍や独裁が危険であるという教訓は,私自身を含めた現代人に深く植え付けられてきた.だが,果たしてシビリアンは,そしてデモクラシーは,攻撃的な戦争を始めてこなかっただろうか.」

スローターハウス5

スローターハウス5

著者の第二次世界大戦でのドレスデン爆撃経験を下敷きとした、時間旅行仕立ての不思議なSF。分類としては反戦SFなんだろうけれど、残虐な描写や、著者自身の意見の明確な記述はほとんどなく、ユーモアあふれた作品。にもかかわらず、淡々とした死の記述(作品中誰かが死んだ際には、必ず”そういうものだ。”という一文が付く)や、原題に含まれる「子供十字軍(The Children’s Crusade)」という言葉に、戦争という愚行に対する著者の皮肉が込められている。

生きることに不熱心なビリーではあるが、彼のオフィスの壁には、彼の生活信条ともいうべき祈りの言葉が額にいれてかかげられていた。それを見て、生きる勇気を与えられたとビリーにいう患者も多かった。それは、こんな文章である―

 神よ願わくばわたしに
 変えることのできない物事を
 受けいれる落ち着きと
 変えることのできる物事を
 変える勇気と
 その違いを常に見分ける知恵とを
 さずけたまえ

ビリー・ピルグリムが変えることのできないもののなかには、過去と、現在と、そして未来がある。

自省録 (岩波文庫)

自省録 (岩波文庫)

ローマ帝国の「哲人皇帝」こと、マルクス・アウレリウス・アントニヌスによる書。原題は「自分自身に(Ta eis heauton)」。公開することを前提にした本では無く、自身の内省のための短い文章を集めたもの(文章中の「君」は、全て自分自身を意味する)。ローマ皇帝というと、「植民地から搾取した金で享楽的な生活を送っていた」というような、ステレオタイプなイメージを思い浮かべる人も多いかもしれない。けれども本書からは、そのような享楽的な皇帝の姿ではなく、本来は哲学者を志望していたマルクス・アウレリウスが、望まぬ形で就いた皇位であっても帝国運営に真摯に全力を傾けたことが伝わってくる。確か塩野七生が、マルクス・アウレリウスのことを「真面目過ぎ」と茶化していたが(笑)、ここまで真面目に生きた人が書いたものは座右の書にもなりうる。

あたかも一万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。

もう一つ、自省録からではないけれど、マルクス・アウレリウスと同時代を生きた、ローマ時代の史家であるカシウス・ディオによる彼の評。

この人の真摯な生き方と生涯を通しての責任感の強さを思えば、もう少し幸運に恵まれた治世を送ってもよかったはずであった。だが、実際はまったくそうでなかったのは、まず第一に、彼自身が健康に恵まれなかったことである。第二に、治世のほとんどが次々と起こる難問に襲われつづけたことであった。だが、わたしは、こうであったからこそかえって、彼に対してより深い敬意をいだき、賞め讃える思いにさえなるのである。皇帝としての彼が直面した問題は、まったく新しく、しかも困難な課題ばかりであったのだ。それでもなお、マルクス・アウレリウスは、病弱な身体でも59歳まで持たせたように、ローマ帝国の延命にも成功したのであった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です